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2015年03月17日

涙のカリフォルニアの日系人「和僑の原点」

日本人の世界的なネットワーク「和僑会」の監事・アドバイザーとしてお手伝いをしているため、

世界で活躍をしてきた多くの日本人について、研究を行っています。

以前は、ハワイ移民の日本人佐久間さんに逢いに行った時の記事です。
http://marketing.yoka-yoka.jp/e146748.html

今回は、カリフォルニア州のシリコンバレーの中心部サンノゼにあるジャパンタウン内の、
下記の博物館に行ってきました。

●JAPANESE AMERICAN MUSEUM OF SAN JOSE
http://www.jamsj.org/

ジャパンタウン地域は、第二次世界大戦時に強制収容所から戻る、日系アメリカ人のホームとなっています。

シリコンバレーの拡張により、多くの日本人はジャパンタウンを離れることになるが、日系コミュニティーのバイタリティーとカルチャーは、現在もジャパンタウンに残存しています。

カリフォルニア州法は、サンノゼのジャパンタウンを歴史地区として指定しています。

今でも、お盆祭り(7月)、日系祭り(春)、秋祭り(秋)、ファーマーズマーケット等が開催されています。

ジャパンタウンを歩いてみると、
不思議なことに、歩いているのは日本人なのに、
誰もが英語を話していることです。

115年の日本人のカリフォルニアへの移民の歴史の中で、
地域に根ざした生活を行ってきたからです。

その歴史は、激動の歴史でもあります。

実際に見学をすると涙が溢れてきます。

私たちの先人は、知らない土地で正に血のにじむ努力を繰り返して来たのです。

和僑として世界中で活躍をする日本人にとって、これほど励みになることはありません。

私たち現代人の海外での苦労など、全くないに等しいほど、
生きるか死ぬかのギリギリの中で、今の地位を築いたのです。

下記の写真ほど、日系人の気持ちを表現したものはないでしょう。

とても印象的です。




その115年の歴史をご紹介します。(Wikipediaの記事をもとに編集)

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●1890年 カリフォルニア州への集団移民開始



●1908年 写真だけのお見合いをしてアメリカの日系人男性のもとへ嫁ぐ女性(いわゆる写真花嫁)の渡航が始まる。

●1930年代 このころカリフォルニアとハワイの日系人たちがようやく経済的に安定した生活を送れるようになる。




●1941年12月8日 真珠湾攻撃による日米開戦(太平洋戦争)。日系人社会の主だった人々が逮捕される。

その際にアメリカ政府は、アメリカ国内の日系人社会の動向を、黄色人種に対する人種差別的感情を背景に(実際に同じく敵国であったドイツ系やイタリア系アメリカ人については、大がかりな強制収容は行われなかった)不安視していたことなどから、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容された。




●1942年2月19日 フランクリン・ルーズベルト大統領による大統領令9066号の発令。「保護」の名目で西海岸地域に住む日系人全員、およびハワイの日系人のうち主だった人々計約11万人が収容所に送られる(日系人の強制収容)。

●1943年2月1日 ルーズベルト大統領によって、第442連隊戦闘団が編成される。

●1943年2月10日 収容所の日系人にApplication for Leave Clearance(出所申請書)が配布される。質問27および28に記されたいわゆる「忠誠登録」が論争の的となる。

●1943年 第100歩兵大隊が欧州戦線に投入される(イタリアやフランスを転戦し、モンテ・カッシーノの戦いなど各地での激闘ぶりを賞賛された)。

●1944年10月24日、第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がドイツ軍に包囲されるという事件が起こった。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていた。

10月25日には、第442連隊戦闘団にルーズベルト大統領自身からの救出命令が下り、部隊は出動した。休養が十分でないままの第442連隊戦闘団は、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなる。

10月30日、ついにテキサス大隊を救出することに成功した。

しかし、テキサス大隊の211名を救出するために、第442連隊戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の重傷を負った。

救出直後、442部隊とテキサス大隊は抱き合って喜んだが、大隊のバーンズ少佐が軽い気持ちで「ジャップ部隊なのか」と言ったため、第442部隊の少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかり、少佐は謝罪して敬礼したという逸話が残されている。

この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになった。

●1945年 第442連隊が18143個の武勲章および9476個の名誉戦傷章を受章し、アメリカ軍史上最も多くの勲章を授与された部隊の栄誉に輝く。同時に累積戦死傷率314%を記録し、全米軍部隊中、最も損害を受けた部隊としても記憶されることとなる。

●1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。(You fought not only the enemy, you fought prejudice-and you won.)」と讃えている。

しかし勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見はなかなか変わらなかった。部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれた。

●1952年 排日移民法の事実上の撤廃となる修正移民法(マッキャラン・ウォルター移民帰化法)可決。日本生まれの1世に初めてアメリカ国籍取得の道が開かれる。




●やがて1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになる。

●1988年 ロナルド・レーガン大統領が『市民の自由法(英語版)』に署名し、人種差別に基づく日系人強制収容の事実の謝罪と一人につき2万ドルの補償をおこなうことを決定。

●2010年 オバマ大統領が、陸軍情報部と第442連隊戦闘団にアメリカ合衆国において最高位の勲章である議会名誉黄金勲章を授与する法案に署名する。
現在のアメリカ陸軍では、442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっている。

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今では、カリフォルニア現地の方人気の見学ポイントになっています。



サンノゼのジャパンタウンには、桜の花が幸せそうに自信を持って咲き誇っていました。

日本人の誇り、素晴らしいです。

先人達の思いを胸に、さらに世界を舞台にチャレンジして参ります(涙)