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2016年01月29日

銀座を拠点に日本をブランド化するプロジェクトを進めます。

日本の活性化のために、今後銀座を拠点に日本の企業や地方をブランドするプロジェクトを本格化させます。

やはり日本の文化とブランドの拠点は銀座です。

銀座の歴史を調べてみましたので、
ご紹介させていただきます。

150年近い銀座の歴史の中で、関東大震災や空襲で焼け野原になりながらも、

多くの方の力で新しく復興し、日本や世界中の人々を魅了する銀座。

常に新陳代謝を繰り返しながら、
最新のライフスタイルを牽引しているのが銀座です。

今後、銀座を拠点に日本を更にブランドします。




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銀座(ぎんざ)は、東京都中央区の地名で、旧京橋区の地域にある。

2014年10月1日現在の人口は3,523人、2010年10月1日現在の面積は0.87平方km。

日本有数の繁華街であり下町の一つでもある。

東京屈指の高級な商店街として、日本国外においても戦前よりフジヤマ、ゲイシャ、ミキモト、赤坂などとともに知られる。

「銀座」の名は一種のブランドになっており全国各地の商店街には「○○銀座」と呼ばれる所がそこかしこに見受けられる。

銀座の地名の由来は、江戸時代に設立された銀貨幣の鋳造所のことで、慶長6年(1601年)に京都の伏見に創設されたのが始まり。

後1800年に東京の蛎殻町に移転して以来、元の「新両替町」の名称に代わり「銀座」として親しまれるようになり、この地名が定着した。

また、銀座四丁目交差点周辺は商業地として日本一地価の高い場所としても知られる。

1869年(明治2年)5月江戸町名改正により新両替町と三十間堀西側等をあわせて銀座一丁目から銀座四丁目が起立。

銀座に転機が訪れたのは、明治維新後の1869年と1872年に起こった2度の大火だった。

特に、1872年の銀座大火は和田倉門内の兵部省添屋敷から出火し、銀座一円が焼失するという大規模なものであった。

そこで、東京府知事・由利公正の主導により、大規模な区画整理と、トーマス・ウォートルス設計によるジョージアン様式の銀座煉瓦街の建設が行われた。

この政策は、火事の多かった東京を不燃都市化すること、また同年秋に開業予定だった横浜〜東京間を結ぶ鉄道の終点・新橋駅と、当時の東日本経済の中心地であった日本橋の間に位置する銀座を文明開化の象徴的な街にしたい、との思惑があったとされる。

ロンドンのリージェント・ストリートに倣って、街路樹(当初は松・桜・もみじ)やガス燈、アーケードなどが造られた。

煉瓦街はまず1873年、銀座通り沿いに完成し、1877年に全街区の建設が完了した。

⚫️1880年代の銀座





しかし、その一方で、住民たちは自らの住所に帰ることができなかった。

煉瓦街の整理後も煉瓦家屋の払下げ価格が高価なうえに支払い条件が厳しく、多くの住民たちは銀座を後にせざるを得なかった。

かわりに、他の地区で成功を収め、煉瓦街に進出してきた商人たちが銀座の表通りで商売を始めた。

現在、「銀座の老舗」とされている店の多くは、それ以降に進出してきた店である。


こうして新しく出発した銀座には2つの特色があった。

まず、実用品の小売を中心とした町であったこと。

そして、京橋区という下町にありながら、顧客は主に山の手(番町、市谷、赤坂、麻布など)に住む華族や財閥といった特権階級(上流階級)や、中産階級、ホワイトカラーの人々だったということである。

当時の下町の人々の盛り場は、古くから栄えた浅草・上野だった。

一方、明治維新後に東京へ出てきた人々は、同じく明治に入って急速な発展を遂げた銀座に集うようになり、こうした地方出身者と中産階級の増加に伴って、銀座も発展をしていった。

⚫️1920年頃の銀座




1923年9月1日に発生した関東大震災で銀座は町の大半を焼失し、壊滅的な被害を受けた。


⚫️関東大震災直後の銀座通り





国の援助を受けて東京市は大規模な帝都復興計画を実施し、都市機能の拡充を行った。

銀座でも、煉瓦家屋のほとんどの取り壊し、昭和通りの整備、晴海通りや外堀通りの拡幅が行われたものの、街区の整備に手をつけられることはなく、1872年の区画整理時の町並みが残された。

⚫️1933年の銀座通り




なお戸越の商店街は震災後の排水処理に困っていた為、銀座から撤去されたレンガを貰いうけて排水処理に利用した。この由来から『戸越銀座』と名乗るようになって、全国初の「○○銀座」となった。

その後、全国各地に「○○銀座」と名付けられた商店街が数多く形成されていくようになった。

震災後は、東京駅の開業に伴う丸の内の発展や東京市電の整備などにより、百貨店や劇場、喫茶店(カフェー)などが次々と登場し、震災恐慌や金融恐慌などで日本中が不景気に見舞われるなかでも発展を続けてゆく。

昭和初期にはアール・デコの影響を受けたモダンボーイ(モボ)やモダンガール(モガ)と呼ばれる人々が町を闊歩し、散策する「銀ブラ」が全盛を極める。

しかし、日本が戦争へ介入するに伴って銀座もその影響を受けるようになる。

戦局の悪化に伴い1940年に贅沢品の製造販売禁止令(七・七禁令)や電力制限による広告灯・ネオンサインの消滅、1944年には警視庁によって劇場・料理店・待合芸妓屋・バー・酒屋が閉鎖され、銀座は大打撃を受けた。

その一方で、軍隊の行進や、贅沢を諫める運動なども街頭で行われた。

第二次世界大戦末期の1945年1月27日に銀座は初めて空襲を受け多数の死者・重傷者を出した。

その後も3月10日、4月28日、5月25日の空襲で銀座は七・八丁目と六丁目の一部を除いて壊滅的な被害を受ける事となる。

⚫️戦後

第二次世界大戦が終わると、服部時計店、松屋や銀座東芝ビルなど、多くの商業施設が連合国軍のPXとして接収された。

その傍らで、銀座の復興も商店主たちの手によって着々と進められ、被災した商店はバラックや露店で営業を再開した。

1951年にGHQの命令により露店は廃止になったが、その頃から接収解除になる建物が増え、銀座は賑わいを取り戻していった。

銀座は明治維新以来の事情から伝統的に不燃建物が多く、戦災を免れた建物も比較的多かったが、復興の過程では戦災を免れた建物もかなり多くのものが取り壊され、建物の(当時としては)高層化が進み、中央通り沿いの景観は、建築基準法(当時)の百尺規制(約31m、1尺≒303mm)で建物の高さが揃うまでになっていった。

⚫️1960年頃の銀座




また、1964年の東京オリンピック開催に合わせて東京の都市インフラ整備も急速に進められ、1949年の三十間堀川の埋め立てを皮切りに、銀座を取り囲んでいた掘割の埋め立てが行われ、銀座西端の旧外堀、南端の汐留川、北端の京橋川を埋め立て、1964年に東京高速道路が完成するなど、掘割は道路へと変貌を遂げていった。

そんな銀座であったが、銀座には暗い影が忍び寄りつつあった。

上述のように、明治維新以来、銀座の主要な顧客であり銀座の個性的文化を創ってきたのは、地方から上京して山手地区に住むホワイトカラー層であったが、関東大震災以降、山手の住宅街は、東京急行電鉄や小田急電鉄、西武鉄道等の沿線住宅開発により、武蔵野台地を急速に西へ西へと広がっていた。

これら電鉄会社は、大阪の阪急電鉄に倣ってそれぞれの都心側ターミナル駅の繁華街建設を進めており、渋谷、新宿、池袋に代表される副都心の鉄道ターミナル繁華街が勃興しつつあったのである。

山手線よりはるかに西に住むようになったホワイトカラー層の主力にとって、銀座は遠い繁華街になりつつあった。

1964年のみゆき族、1971年のマクドナルド1号店の開店、1970年の歩行者天国の開始などを最後に、東京の繁華街の文化的中心としての銀座は、山手在住の若者文化の中心としての地位を渋谷(「シブヤ系」も参照)や原宿に、庶民的な要素も含めた総合的な筆頭繁華街としての地位は、新宿に奪われることになっていく。

1980年代後半には、バブル景気に伴う地価高騰の象徴として、銀座の天文学的地価が連日報道され、高級クラブに代表される夜の街としてのステータスは盤石ながらも、総合的な繁華街としては首都圏における鉄道沿線文化の色分けに組み込まれていき、銀座は、千葉弁が飛び交う、東京東部の一繁華街に落ち着きつつあった。

1990年代後半になると、東京郊外の西への拡張が一段落し、都心再開発のブームが起きて、都心としての銀座が再び脚光を浴びるようになる。銀座の各所で再開発が促され、ヨーロッパの高級ブランド各社も銀座の持つブランド性に再び着目するようになった結果、海外の高級ブランド店が、中央通りや晴海通りなどに表通りに軒を連ねるようになった。

他方、都心再開発は、遠く遠ざかっていた東京西部郊外の住民を、一定程度銀座にも呼び戻すことになった。彼らによって、総合的繁華街としての副都心の雰囲気が銀座にも持ち込まれるようになり、長期不況に伴う小売業態の変化も手伝って、ドラッグストアや飲食店のチェーン店なども開業するようになった。

その結果、戦前や高度経済成長期のような「独特な高級繁華街」としての雰囲気は、随分薄くなっていると言える。

2010年代になると、中国人観光客によるいわゆる爆買に代表される外国人観光客が目立つようになった。それにあわせ外国人向け免税店や既存の店舗の中に外国人向け免税コーナーや免税手続き所を設ける店舗が多くなっている。

⚫️商業

銀座は、東京の中心的な商業地の一つであり、有楽町エリアを合わせた2002年の年間商品販売額は4088億2100万円で、東京都内では新宿駅東口地域に次ぐ規模である。

明治時代に舶来品などが並んだ銀座は高級商店街として発展してきた。昭和初期のデパート進出などにより、銀座は東京随一の盛り場としての地位を確実なものにしていくが業態は少しずつ変化していった。

従来は高級婦人服飾店といえば銀座セキネ、銀座マギー、マミーナ、マミーナ、小松ストア、銀座ダイアナ、三愛、創作洋品店(オートクチュール店舗)、日本初のセレクトショップであるサンモトヤマなどが代表だったが1990年代のバブル崩壊以後は海外の有名ブランドが続々と旗艦店を銀座に構えた、その一方でカラオケ店、ブランド品買取専門の質店などといった大衆的な業種のチェーン店化が活発になってゆく。

銀座は、百貨店の集積地でもあり、松屋・松坂屋・三越・プランタン銀座のほかにも、隣接する有楽町の阪急MEN'S TOKYO、ルミネを含めると6店に及ぶ。

1966年にはソニーがソニービルを建設するのを皮切りに家電メーカーがオーディオ製品を中心にしたショールームを銀座に相次いで開設した(松下電器=テクニクス銀座ショールーム、日立製作所=Lo-Dプラザ、東京芝浦電気=東芝銀座セブン、日本ビクター=ニッパーズギンザ)。

また、日産自動車も銀座ギャラリーを開設した。

その他にも、モザイク銀座阪急やニューメルサなど大型の衣料品店が数多く並ぶ。

⚫️文化

明治時代、煉瓦街建設や横浜と新橋を結ぶ鉄道の開業、また築地(明石町)鉄砲洲(湊)に外国人居留地があったために舶来品の往来が盛んとなった銀座にはそれらの品を扱う商店が軒を連ね、銀座は西洋文化の発信地として日本文化の近代化に大きな役割を果たした。

食においても、銀座は西洋の味覚を紹介する場となった。

1871年、「文英堂」(現・木村屋總本店)が尾張町にて創業し、あんパンの販売を始めた。

また、1895年には洋食屋の「煉瓦亭」が開業した。

銀座で調剤薬局を営んでいた資生堂は1902年、店舗内に「ソーダ・ファウンテン」(現・資生堂パーラー)を併設し、ソーダ水やアイスクリームを売りだした。

他にも、1897年に開業した「銀座千疋屋」は輸入果物の販売や日本初のフルーツパーラーを開業するなど銀座には様々な食文化が流入した。

1911年3月、パリのカフェを模した「カフェー・プランタン」が開店し、作家や画家などの文化人の社交場となった。

その後も「カフェー・ライオン」や「カフェーパウリスタ」などが続々と開店し、学生なども出入するようになり、文壇の議論が盛んに行われた。

戦後、銀座は徐々に世界各国の高級料理店が進出し、代表的なフランス料理店のレカン、マキシム・ド・パリや高級クラブなどが林立する街として認知されるようになってゆく。

1980年代後半に差し掛かるとそれまでとは比較にならない勢いで世界の一流レストランが挙って出店する一方、外食フランチャイズも盛んになる。

まず1971年に「マクドナルド」、「ダンキンドーナツ」の1号店が銀座に開店。

1990年代後半には「スターバックスコーヒー」や「タリーズコーヒー」が相次いで進出し、その後も「サンマルクカフェ」や銀座四丁目交差点で銀座和光と並ぶランドマーク的な存在である三愛ドリームセンター内に「ル・カフェ・ドトール」の1号店が開店、銀座は戦前とは異なる形態のカフェ激戦地となり、カフェブームを全国へ広げる舞台として躍進する。

⚫️ファッション

服飾文化においても、銀座は西洋ファッションを紹介する場となった。そのなかで、資生堂は化粧品を扱うなど、ファッション文化の発展に大きく貢献する。

関東大震災後の大正末期から昭和初期にかけてはモボ・モガと呼ばれる当時の世界的流行であるアール・デコの影響を色濃く受けた若者たちが現れた。

1964年に並木通りやみゆき通り周辺で「みゆき族」と呼ばれる若者が出現した。男性は流行していたアイビー・ルックかコンチネンタルルック、女性はロングスカートのバックに共布のリボンベルトを結び、二つに折ったハンカチーフを頭にかぶるというスタイルで、手には流行を扇動した「VAN」や「JUN」の紙袋かコーヒー豆の麻袋を持つというスタイルだった。

しかし、同年に開催される東京オリンピックを前に風紀の乱れを懸念した警察によって一斉取締りが行われ、みゆき族はひと夏で姿を消す。

1990年代後半からは海外ブランドの進出が活発になり、並木通りを中心として次第に晴海通り、銀座通り(中央通り)へと多くの海外高級ブランド店が進出。

しかし、2007年8月にアメリカで起きたバブル崩壊と経済危機の煽りで、海外ブランドの閉鎖が相次ぎ、2割ほどが撤退すると予想されている。最近ではユニクロやFOREVER21等のファストファッション専門店が進出し様変わりしている。

⚫️文化施設

1900年代から1920年代前半にかけて、歌舞伎座や東京宝塚劇場など、銀座・有楽町周辺には多くの劇場が開場した。

1950年代以後はカントリー・ミュージックやジャズなどをバンドの生演奏で楽しむジャズ喫茶の開店が相次ぎ、1960年代に入ると銀座ACBが盛況を博し、シャンソン喫茶「銀巴里」は多くのシャンソン歌手を生んだ。

しかし、1970年頃より、新宿や御茶ノ水などへ音楽の拠点は移っていった。

劇場や映画館は1970年代までと比べ減少したが、現在ではコンサートホールなどの文化施設が多く存在している。

特徴的なのは、ヤマハホールや王子ホールといった企業の文化支援活動の一つとして開いているものが多いことである。また、画廊は全国の4分の1が銀座に集約しているとされる。

(以上、ウィキペディアの情報を引用&編集)

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