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2009年06月17日

ルー大柴講演会



青年会議所の福岡ブロック会員大会のメイン事業で
ルー大柴氏を招いての講演会をお伺いいたしました。

今までの人生を振り返る「愛を心に響かせよう」という
演題でとても楽しい講演をお伺いすることが出来ました。

大きなジャスチャーとルー語満載な中に、
とても誠実そうな一面も見せていただきました。

ポイントをまとめてみましたので、下記をご覧ください。


●父親は旧満州のハルビンで生まれ育ち、ロシア語・中国語・英語に堪能で、幼少のルーにハグや接吻をするような人物であったという。

●両親が不仲になったこともあり、高校卒業を機に実家を出た。欧米各地で、自作のアクセサリーを露天商売販売しながら数年間放浪。これを機に英会話が特技となる。

●帰国後、両親は離婚しており、一旦は親戚の経営する印刷会社に就職するものの即退職。

●1977年にテレビドラマ『俺たちの朝』で俳優としてデビューする(ただし、一話限りの出演でそれも端役扱い)。

●1979年、勝新太郎が主宰した『勝アカデミー』に第一期生として参加。この時、同期だった小堺一機と知り合う。この間、俳優業は鳴かず飛ばずで、司会業やモデル業をして雌伏の時を過ごす。また、この時期に関根勤とも知り合う。

●お金が無く、女房・子供を泣かすな!と母親から怒られたのがターニングポイントとなった。

●折り込みチラシなど、モデル時代の事務所のパンフレットに掲載されていた“カジュアルなスタイルにウエストポーチをつけた格好”が関根勤のラジオで話題となり、番組内で“ポシェット・ルー”として人気に火がつく。

●その後、ブレイクし急に人気が出て「嫌いなタレント」1位に4年連続で選ばれる。ちなみに、嫌いなタレント2位・3位は小錦・ジミーだったという(笑)。

●その後仕事が徐々に減り始め、ついに41歳でレギュラーがゼロになり、世間から忘れられた気分になると共に、給料が10分の1になった。

●その頃、中学生になった子供に「ドジョウ取りに行こう」と誘うと、そんなに暇じゃないと断られショックを受ける。

●地方に営業に行ったときに「なぜ、最近テレビに出ないの?ルーにパワーをもらったのに」と励まされ嬉しかった。

●50歳過ぎに現在のマネージャーであり所属事務所の社長から「中途半端なことをせずに、どう生きるのか」と問われ自分を自分を見つめ直す。

●その言葉に心を打たれ、もう一度チャンスをくださいとお願いをし、意識改革の一環としてブログを開始した。

●そのブログに関しての話題が「2006年の“ノーベンバー”頃から、2ちゃんねる経由で火がつき」、世間の人々が注目するようになった。

●みんなのうたに「MOTTAINAI」が採用されるなど、再び注目をされはじめている。

●「人間は一人だけでは生きられず、多くの方の助けによって、活かされている。1度だけの人生なのでこれからも精一杯生きていきたい。」とルー大柴氏は締めくくりました。

ルー大柴さん、ありがとうございました。

  

Posted by 脇田勝利 at 18:06Comments(0)