(株)ドリームマーケティング
http://www.dream-marketing.jp/
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2018年02月22日
葛飾北斎の生き様に学ぶ。
葛飾北斎をテーマにした東京都墨田区の両国にある「すみだ北斎美術館」に行ってきました。
時間があれば、世界中の美術館やギャラリーに可能な限り足を運ぶようにしています。
何より「感性を磨くひと時」が最高に心地良く、
心も体も別世界へと運んでくれるアートの世界は大好きです。
墨田区で生まれた北斎の人生を生まれた頃から亡くなるまで、
時系列に作品を飾り、とても心に響く作品ばかりでした。
素晴らしいのが、その作品の多様性です。
90歳の人生で引越しを93回、生涯に30回改号し「北斎」に落ち着いたことからもわかるように、
とにかく変化をいとわない変幻自在の人物だったようです。
引越しは一日に3回引っ越したこともあるという状態で、
当時の人名録にも「居所不定」と記されており、
ほとんどホームレス(笑)のような状態だったと思われます。
私の1ヶ月のうち3週間はホテルか飛行機かキャンプで過ごしていますので、
とても共感します。
葛飾北斎のアートは、宇宙に存在する全てのものである森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表しています。
3万点の作品を生み出すということはとにかく膨大な量を毎日生み出す必要があります。
単純に90歳で3万点の作品を生み出すためには「人生で毎日1日1点以上の作品を発表」するほど、
アウトプットをしまくっていたということが分かります。
その影響力は世界へと波及し、1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしています。
門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれています。
北斎はアートを生み出すこと以外は完全に無頓着だったようです。
居酒屋の隣りに住んだときは、3食とも店から出前させ、家に食器一つなかったようです。
包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置し、土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れないほどだったようです。
北斎は金銭にも無頓着で、北斎の画工料は通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由し金を貯える気は見られなかった。
他にもとにかくアート以外の部分は、ずぼらで天才と変人は紙一重な生き方だったようです。
「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」
「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した」
「天我をして五年後の命を保ためしハ真正の画工となるを得べし」。
この言葉は、嘉永二(一八四九)年四月十八日、北斎が九十歳で亡くなられる間際に、残した言葉です。
「天がもう五年、私を生かしてくれれば、私は本物の画家になれたであろう」という意味です。
つまり北斎は、あと五年あれば絵の本質をきわめることができる と言っています。

そして北斎最後の傑作に「富士越龍図」があります。

富士山から黒雲に乗り、龍が天に昇るこの絵は、北斎が画業を成し遂げ天に昇る図に見えます。
北斎の人生の魂を感じ鳥肌が立つほどの感動を覚えました。
人生をかけて何を極めていくか改めて考えさせられた貴重なひと時になりました。
最後に残るのは「自分の生き様」のみです。
どんな生き様を残していくかを北斎に改めて学びました。
●すみだ北斎美術館
http://hokusai-museum.jp/



時間があれば、世界中の美術館やギャラリーに可能な限り足を運ぶようにしています。
何より「感性を磨くひと時」が最高に心地良く、
心も体も別世界へと運んでくれるアートの世界は大好きです。
墨田区で生まれた北斎の人生を生まれた頃から亡くなるまで、
時系列に作品を飾り、とても心に響く作品ばかりでした。
素晴らしいのが、その作品の多様性です。
90歳の人生で引越しを93回、生涯に30回改号し「北斎」に落ち着いたことからもわかるように、
とにかく変化をいとわない変幻自在の人物だったようです。
引越しは一日に3回引っ越したこともあるという状態で、
当時の人名録にも「居所不定」と記されており、
ほとんどホームレス(笑)のような状態だったと思われます。
私の1ヶ月のうち3週間はホテルか飛行機かキャンプで過ごしていますので、
とても共感します。
葛飾北斎のアートは、宇宙に存在する全てのものである森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表しています。
3万点の作品を生み出すということはとにかく膨大な量を毎日生み出す必要があります。
単純に90歳で3万点の作品を生み出すためには「人生で毎日1日1点以上の作品を発表」するほど、
アウトプットをしまくっていたということが分かります。
その影響力は世界へと波及し、1999年には、アメリカ合衆国の雑誌である『ライフ』の企画「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」で、日本人として唯一86位にランクインしています。
門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれています。
北斎はアートを生み出すこと以外は完全に無頓着だったようです。
居酒屋の隣りに住んだときは、3食とも店から出前させ、家に食器一つなかったようです。
包装の竹皮や箱のまま食べては、ゴミをそのまま放置し、土瓶と茶碗2,3はもっていたが、自分で茶を入れないほどだったようです。
北斎は金銭にも無頓着で、北斎の画工料は通常の倍を得ていたが、赤貧で衣服にも不自由し金を貯える気は見られなかった。
他にもとにかくアート以外の部分は、ずぼらで天才と変人は紙一重な生き方だったようです。
「北斎は汚れた衣服で机に向かい、近くに食べ物の包みが散らかしてある。娘もそのゴミの中に座って絵を描いていた」
「9月下旬から4月上旬まではこたつにはいり続け、どんな人が訪れようとも画を書くときも、こたつを出ることはなく、疲れたら横の枕で寝るし目覚めたら画を描き続ける。昼夜これを続けた。夜着の袖は無駄だから着ない。こたつに入りつづけると炭火はのぼせるから炭団を使う。布団にはしらみが大発生した」
「天我をして五年後の命を保ためしハ真正の画工となるを得べし」。
この言葉は、嘉永二(一八四九)年四月十八日、北斎が九十歳で亡くなられる間際に、残した言葉です。
「天がもう五年、私を生かしてくれれば、私は本物の画家になれたであろう」という意味です。
つまり北斎は、あと五年あれば絵の本質をきわめることができる と言っています。

そして北斎最後の傑作に「富士越龍図」があります。

富士山から黒雲に乗り、龍が天に昇るこの絵は、北斎が画業を成し遂げ天に昇る図に見えます。
北斎の人生の魂を感じ鳥肌が立つほどの感動を覚えました。
人生をかけて何を極めていくか改めて考えさせられた貴重なひと時になりました。
最後に残るのは「自分の生き様」のみです。
どんな生き様を残していくかを北斎に改めて学びました。
●すみだ北斎美術館
http://hokusai-museum.jp/



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Posted by 脇田勝利 at 00:05│Comments(0)
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